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 占い師・羅王(らおう)のヨーロッパ遍歴

羅王は一見して存在感があって、ひとところに居を構えてそうだ、と言われますが、 実際は遊牧民族のように中央ヨーロッパ内、特にドイツ・スイス・オーストリア、いわゆるドイツ語圏を転々としてきました。
九星気学という占いで羅王は「風の星」。今回は人生を風のように生きると決めて生まれてきたらしい。
それで金、仕事、起業、学業、興味などさまざまな要因に引きずられたり、惹かれたりして住む場所を変えて来たのでしょう。 話を聞いた人は多分、羅王は引越しが好きなんだ!と誤解するでしょう(^王^)
このページでは以下の順で羅王の外国遍歴を手短に紹介します。なにしろ21年の海外生活ですので、詳しく書くときりがない。 細かな体験談はいつか私がブログに書くまでお待ちください。よろしくお付き合い下さい。

羅王が住んだ国と町

◆◇ 結婚した〜♪ ◇◆
◆◇ シベリア鉄道の旅でヨーロッパへ ◇◆
◆◇ 初めてのドイツ、フライブルクと黒い森 ◇◆
◆◇ スイスでガイド・デビュー ◇◆
◆◇ 大都会ウィーンでウェイター ◇◆
◆◇ ハイデルベルク大学の学生 ◇◆
◆◇ 中世の城郭都市ローテンブルク ◆◇
◆◇ 金融街フランクフルト ◆◇
◆◇ 関西暮らしも気に入った♪ ◇◆
◆◇ 新大阪に事務所Officeらおう♪ ◇◆
 

 羅王が仕事で巡った観光地・観光ルート

◆◇ 古城街道とロマンティック街道 ◇◆
◆◇ メルヘン街道とエリカ街道 ◇◆
◆◇ ゲーテ街道と旧東ドイツ圏 ◇◆
◆◇ ヘッセ街道と花の島マイナウ ◇◆
◆◇ オーストリア・チロルとザルツブルク ◇◆
◆◇ スイスのベルナーオーバーラント ◇◆
◆◇ スイスのマッターホルン ◇◆
◆◇ スイスのベルン、ルツェルン、ジュネーヴ ◇◆
◆◇ イタリアのベニス、ミラノ ◇◆
◆◇ チェコのプラハ、チェスキー・クルムロフ ◇◆
◆◇ オランダのアムステルダム、アントワープ ◇◆
◆◇ ベルギーのゲント、ブルージュ ◇◆

 羅王が住んだ国と町


 まだ学生だったけど、結婚した〜♪ 

妻とはすでに一緒に暮らしていて将来に何の確信も持てなかったのだが結婚して二人でドイツに行くことに決めたのである

結婚式は白馬でやった。友人たちにはペンションに泊まってもらい、近くの小さなチャペル・・・? 教会・・・?  ん〜、実は深い雪の中にポツンと建っている三角屋根の山小屋のような礼拝堂で結婚式を挙げたのだ。ようするに幸せだったのだ。 挙式の場所は、しあわせならばどこだっていいものだ!

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 シベリア鉄道の旅でヨーロッパへ 


 @ シベリア経由が安い 
さあ、どうやってドイツまで行くか?という段になった。飛行機ではあまり面白くない。 船は35日程度の時間が掛かる上に金額も大きい。それにどうせ階層の低いキャビンは甲板の上ではなくて、 船底辺りに違いない。それじゃあんまり気分が良くないねぇ〜・・・などと新婚そうそうで、 渡航費用をできるだけ安く上げようと思案していたときに、妻が面白い提案をした。 ソビエトを通って行くと列車でも飛行機でも安いらしい、ソビエトの国内線は地球をほぼ半周しても 1万円程度というのだ。うん、安い。それもシベリア鉄道って聞いたことアルぞ。
ナホトカ ⇒ ハバロフスク(乗り換え) ⇒ イルクーツク(一泊) ⇒ ウランウデ  ⇒ モスクワ(2泊) ⇒ ワルシャワ(車両替え) ⇒ 当時の東ベルリンというコースだ。
結局、ソビエトの領事館でヴィザを取り、インツーリストという国営の外国人専用ツーリストで旅行を手配した。 ナホトカまでは横浜から船に乗って2昼夜の船旅にした。
当時、東京では学習塾に勤めていたが、そこの同僚の先生二人が、横浜の大桟橋から出航する我々を見送ってくれた(^д^)/”
 @ 羅王は実は船に弱かった 
さて、チェルネンコ号というまあまあ大き目の船に乗って太平洋に出た。 もともと妻は瀬戸内の島育ち。私も瀬戸内の浜育ちだ。海は慣れている・・・と思ったが、 私は船酔いした。起きている内はなんともないが、横になると気分が悪い。 やはり太平洋の大きなうねりから来る揺れには慣れてない。360°全部が青い空と海 という爽快さはすぐに飽きて、あとは船酔いで津軽海峡を抜けてナホトカに着くまで食欲を失っていた。
ナホトカは1970年代の日本の小さな漁港を彷彿とさせる佇まいであった。そこの関税職員は、 日本の物が珍しくて仕方ない。のに、どこかに爆弾か機密文書でもあるに違いない、という風情で スーツケースを隅から隅まで調べた。用意してきた雑誌とか電卓をプレゼントすると、いきなり 検閲が終わった。当時はまだそういう時代だったのだ。
乗り込んだロシア号にはさらに日本からの乗客が居た。一人でパリへ行くという女性。 山口百恵にそっくりなブリアート人に恋した青年。日本で英語を教えているというニック氏。 隣のコンパートメントにも居たな。その人々とはもう21年会ってないが・・・今頃どうしているのだろうか?
 @ 列車に置き去りにされたぁ〜! 
ほかにも、イルクーツクで電車が8時間遅れたことや、そうそうウランウデの駅でピロシキを買っていたら、 現地のおじさんがお互いの顔を指して「おんなじ顔だな」というジェスチャーをした。どこに行くんだ? と聞いていそうなので「モスクワ」と応えたら「オー、マスクヴァ」と発音した。うん。そうか、 と発音を真似ているうちに後ろで列車が発車した。焦る私に、まだゆっくりで間に合うという手振りの おじさんと別れてノロノロ走り出す列車に飛び乗った。モスクワでは外国人専用のかなりな高級ホテルに泊まった。 ワルシャワではちょっとホームに下りたら、列車が引き返して視界から消えてしまった。おお〜〜〜!!! 置いて行かれた〜!と私はビックリし、一緒に居た4人のアメリカ人は持っていた缶コーラを遠ざかる電車に投げつけていた^^;
ま、すぐに駅員に40分後には台車を交換して返って来るという情報を聞いたんだけどね。 列車がガーと引き返したときは本当に置き去りにされたかと思って唖然としていた。
 @ まだベルリンには東西の壁があった 
そうだ。東ベルリンから西ベルリンへの入り口がなかなか見つからなかったんだ。ま、この話も途中の話も、 話せば長くなるので、この辺りで。 西ベルリンでは今は亡き友人の小島氏と旧友を暖め、ベルリン観光をし、 それから目的地フライブルクへと出発した。

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 初めてのドイツ、フライブルクと黒い森


@ フライブルクはいい町だ!
フライブルクは今思い出してもいい町だった。まあ、観光ガイドブックに書かれているが、 町の中央の大聖堂。大聖堂の周りに立つ野菜市場。歩道のモザイク。防火用のきれいな水路。 街中はたくさん人が歩いているが、車は進入できない。静かで落ち着いたたたずまいが気に入っている。 ヨーロッパの大都会は別にして、中小都市は町並みに17世紀〜18世紀の趣がある。 フライブルクは黒い森山地の南西側のふもとにある大学町だ。
@ アパート探しが大変 
まあ、最初は語学学校の入学許可を取っていたけれども、それではアパートが見つからない。 ずっとホテルやペンション暮らしをするほどの財政的な余裕はない。それで妻といろいろと相談した結果、 特に日本人のためにドイツ語を教えているというスクールに入学することにした。そこだとアパート または下宿を紹介してくれるからだ。というわけで、最初の半年くらいは両方の語学学校に通うこととなった。
住まいはフライブルクの町からさらにバスで終点から歩くという「魔女の谷」という地名で、 森のすぐそばに高級住宅が立つ丘の一角だった。ヒマな時間はよく森を散歩したものだ。
@ とにかくドイツ語を2000ページ読め!
このころ宿題をしても時間があまったので、かつて哲学の教授に「まあ語学は、とにかく2000ページを読みなさい! それからでないと話にならん!と昔は言ったものだ。」という言葉に従って、ミヒャエル・エンデなど 楽で枚数の多い少年文学ものをバリバリ読んでなんとか2000ページを達成した。難解な文章だけをノロノロと読み進み 結局は頓挫してしまうという愚を冒すことなく、多くの文章が読めるようになったのはこの助言のお陰だ。
@ イベントを存分に楽しんだ! 
その独日の学校は授業料が高いなりに色々なイベントを用意してくれた。黒い森のピクニックとバーベキュー。 ミュンヘンでコンサート。バーゼルでバレットの鑑賞。翌年には船で一週間オランダの水路を回る旅にも行かせてもらった。 まあ、日本人ばかりで人間関係が面倒だったけれども・・・(^王^)
@ 職探し
そして、一年が過ぎ、さあ次はどこに行こうか?という段になり、私は当時は一応まだ教師志望だったので、 デュッセルドルフあたりの日本人学校に就職するか?と思っていたのだがなかなかそういう求職がない。 で、妻が「あれ、スイスでハイキングガイドの募集がある!」というので、一路スイスへ!・・・といっても フライブルクからスイスに入るまではたったの60kmだ。
結局、ひと夏二人でハイキングガイドとして働くことになった。
ま、ドイツにはまた帰ってくればいいだろう^^


 スイスでガイド・デビュー 


@ JJにはひと夏で50回以上!
そこでまずはアイガー・メンヒ・ユングフラウというスイスを代表するベルナー・オーバーラント地方の観光ガイドを始めた。 登山電車で観光客を案内したり、ハイキングしたりという仕事だ。時々、インターラーケンでの友好都市交流や スイスの材木加工工場の視察など、通訳の仕事もあった。なんにしてもそれが私たちのガイド・通訳のデビューであった。 ひと夏だけでユングフラウ・ヨッホ(略してJJと書く)には50回以上登ったはずだ。
スイスを離れた後も、スイスのガイドするためにドイツからやってくるという具合で、ずっと縁のある国になった。
まあ、もともと日本にいた頃、3000m級の山は大抵登ったという羅王なので、山国のスイスが好きであって当然だ。
@ 仕事は教授の講義の遺産で・・・
また、恩師の宮下啓三教授の専門にスイス・オーストリア史や演劇史が含まれている。私はその講義のおかげで自分なりの スタイルでガイドができた。教授の講義の遺産で仕事をさせてもらった、というわけだ(^王^)。
@ 教授のスイスに関する著作
以下は教授のスイスに関する著作だ。ここで紹介しとこ♪
「中立をまもる−スイスの栄光と苦難−」講談社(講談社現代新書)、1968年7月
スイス・アルプス風土記 白水社 1977年7月
ウィリアム・テル伝記−ある英雄の虚実− 日本放送出版協会(NHKブックス)1979年8月
700歳のスイス−アルプスの国の過去と今と未来− 筑摩書房(ちくまライブラリー)1991年11月
そして、後にドイツに帰ることになるのだが、ドイツでの仕事にも多くの方の書籍を参照させてもらったが、再び教授から頂いた本も活用した。
メルヘン案内−グリム以前・以降− 日本放送出版協会(NHKブックス)1982年4月
@ 次はどの国に行く?
さて、短い夏は駆け足で過ぎ去り、10月には新しく住む場所を探す必要がある。う〜ん。ドイツに帰るか?それとも・・・。 じゃあちょっとウィーンに行って見るか。そこでアパートを探してみる。週末に1泊するだけだが、その間に見つかったらウィーンに引っ越そう!
結局、たった一日で電話してアポを取り、アパートを契約する段取りがついてしまった。ラッキー!とまあ物事がスムーズなときはそんなもんだ。
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 大都会ウィーンでウェイター 


@ 大使館街に住む。
ウィーンに住んだのは半年間。10月から翌年の3月末まで。そこはベルベデーレ宮殿近くでさまざまな国の大使館・領事館が建つ区域だ。 そこに不似合いに大きなアパートを借りた。広いが築年は古く、家具はほとんど何もない。さあ、どうする。またガイドでもするか?
ところがそうはいかない!
@ ガイド資格には面倒な試験が・・・
ウィーンにはパリやイタリアなどと同じで資格が必要なのだ。それも面倒な試験らしい。ん〜、試験とかがあまり得意でない羅王は 「ま、ウィーン大学に留学するなら滞在も長くなるから資格をとろう。そうでないなら要らない。」と考えた。で、資格の要らない アテンドやトランスファーの仕事をしていたが、やはり毎日働く場所が必要だ。
@ 初めてのウェイター!
それで、日本食レストランのウェイターをすることにした!
羅王の人生でウェイターの仕事はこの半年間だけだ。しかし、なかなか楽しかった。客の注文を聞いて、料理を運び、時には食べ方や 料理の説明をする。といっても日本料理を食べにくる人は常連が多く大抵よく知っている。料理だけではなく、日本の歴史や文化にも 造詣が深い知識階級だ。ああ、有名なウィーンの画家フンデルトヴァッサーも2〜3回見かけたぞ。自分の名前を日本語にした「百水」 という印鑑を自慢げに見せてくれた。箸の使い方も上手な日本通のお爺ちゃんだった。ちゃんと観察していたからね。韓国人の同僚とか、 ポーランドから来た下働きのお姉さんとも楽しく働いた。もちろん日本人の料理人もちゃんと二人働いていた。
@ 1989年は変化の年
この1989年は1月8日に昭和から平成に変わった年だが、欧州の情勢も変化したときだ。ちょうどベルリンの壁が崩壊した。 ルーマニアで革命が勃発し独裁者チャウシェスクが殺された。年が明けると秒速60mという大きなハリケーンが来るなど、どの局面でも変化の時だったようだ。
で、私はウィーン大学への入学を諦めた。
@ ドイツに帰ることを決意!
一番の理由は無料だったからだ。ドイツの国公立大学は当時、どこも授業料が無料だったのだ。それでやはりドイツに帰ることにした。 で、通訳科でも行くか、と考えてボン大学とハイデルベルク大学に願書を出して、試験のための入国許可書をもらっていた。だが、 アパートを見つけることができないと大変だ。だから、まずアパート情報を見て手紙を書き、OKの返事が来た方に決めよう!ということになった。 そして、ハイデルベルクからその返事が来たので、ウェイターを辞して、一路ドイツに帰ることとなった。とはいえウィーンは、一度は住んだ町だから、 スイス同様この後何度もガイドとして訪れることになる(^王^)
@ オーストリアの首都には階級があった!
秋と冬のウィーンに住んだから羅王にとってウィーンのイメージは暗い。人通りの少ない旧市街の夜道は、生者よりも死者の方が多く歩いているような気がする。 また、ドイツやスイスにはない「階級意識」がある。ドイツ語でヒェラルヒーという奴だ。特に冬のBALL。バルは舞踏会という奴でウィーンの国立オペラ座でやるが、 そのときたくさんの見物人がロープの外を取り囲む中、タキシード姿で馬車で乗り付けて招待状を見せて入場する貴族の末裔を見るとそう感じる。格付けは王侯貴族と その末裔が上位で、最下位が外国人労働者や東欧圏からの不法労働者だ。東西の壁があるときは地理的にも東側にグッとせり出していたから不法労働者も多かった。 まあ、日本人は観光客も滞在者も階級不明ではあったが・・・。


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 ハイデルベルク大学の学生


@ 大学町で城下町
ハイデルベルクは欧州滞在中もっとも長期に住んだ町だ。ガイドブックには城下町で大学町と書かれているが、それはハイデルベルクをよく言い表している。 ライン川の支流ネッカー川のほとりにある人口約14万人という小さな町だ。
@ ハイデルベルク大学時代
ここの大学で私は言語学科と日本語学科のマスターコースに在籍した。最低4年間のコースで、前半2年と後半2年に分かれている。 最初の2年は色々と基礎的な単位をたくさん取得しなければならない。単位が集まると短い論文を提出し口述試験を受ける。 専門に進むための「中間試験」だ。この試験に受かると残り2年。後半は3〜4本の専門レポートを書けば、卒業論文と卒業試験があるだけ。 とはいえ、これが大変だ!私は一応中間試験はパスしたが、あまり誉められない成績でだったし、もう勉強すること、 今後研究者としてやってゆくことに執着がなかったので、そこで中退を決めた。 じゃあ、勉強、勉強とガリ勉してきたかというと・・・ 私の人生で勉強熱心だったことは一度もない!が正直な感想だ。よくもこんなに長い間自分を誤解してこれたな、と我ながら思うのである(^王^;)y
@ ガイド・通訳ばかり!
では、何をしていたのだ!ガイドと通訳ばかりしていたのだ。もうこれが楽しくて仕方なくて、観光客と一緒に町々を巡ったり、 視察団と一緒に企業見学をしたりしているうちに、あっという間に10年が過ぎた。1990年代はバブルがはじけたといっても、 欧州への観光客はそれほど減少していない頃だった。もちろん湾岸戦争の時は一時的に激減したことはあったけれども。 もう解散してしまったイギリスの旅行代理店からはよく依頼があった。ガイドや通訳というよりも、現地の添乗員としてグループを案内するのだ。 この仕事もなかなか楽しかった。私はロマンチック街道を間違いなく200回以上はバスで走っている。
@ ハイデルベルクからローテンブルクへ
私はおそらく過去の人生で何度もドイツ語圏で生活していたに違いない。それくらい水を得た魚の如く、自由自在に暮らしていた。 やがて、小さなお土産店舗を始めて、それがきっかけで我が青春のハイデルベルクを去り、もう何度も訪れた中世の城郭都市ローテンブルクに移り住むことになる。
それにしても色々な人々と知り合いになった。ここでこまごまと書くわけにはいかない。みなさんお世話になりました。どうかお元気で♪ 


 中世の城郭都市ローテンブルク 


ローテンブルクはドイツでも有名な観光地だ。人口一万人ちょっとの小さな中世の村だが、ロマンティック街道と古城街道の交点なので、 シーズン中は世界中からやってくる観光客でとてもにぎわうことになる。ここには2年半ほどの短い滞在となった。
この村での滞在中に商売は立ち行かなくなる。結局、ここで「湾岸戦争」や「疫病ザース」「豚ペスト」など、 毎年あらゆる試練がやって来て、ビジネスからすっかり足を洗うことになるわけだ。 お金はないけどまだ車はあったので妻と娘二人の4人でよく家族旅行をした。 スコットランドのフィンドホーンやチェコを走ったものだ。
あとはなにもせずに瞑想ばかりして過ごしていた。いろいろな啓示が来たり、気付きがあったり、エネルギーを感じたり、祓う力を実感したりと、 この時期には、現在の占い師という職業の準備をたくさんしたような気がする。
とにかく一軒家からアパートに引っ越したので荷物が多かった。地下に大きな物置用倉庫があったのでそこにあらゆるものを置いていたが、 一体何に使うのか?!というほど余計な荷物をたくさん持ってた。
フランクフルトに引越しをすることになり、そこはもっと小さなアパートなのでほとんど何も持って行けないと悟る。 庭がないから梯子も芝刈り機も要らない。置き場所がないからベンチプレスもパラボラアンテナも要らない。 ほとんどのモノは、通りがかりの人や近所の人に引き取ってもらった。この引越しでずいぶんと身軽になった。 やはり「整理とは捨てること」であるらしい。
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 金融街フランクフルト 


住んだのはフランクフルト空港のすぐそばだ。日本人観光ツアーの仕事は大抵フランクフルト空港から始まるので仕事にはとても便利だった。 市内までは電車でたったの15分だ。ローテンブルクと違って、街中にはたくさんの日本食レストランがあり、 アジア食料品を売っている店も多い。これだけでもローテンブルクとはずいぶん生活が楽だ!なにより日本の食料に飢えていたし、 新鮮な魚が手に入るもの嬉しいことであった。
今はわざわざそんな必要ないので全然していないが、金曜日には黒鯛を買ってきてよく刺身にしたものだ。金曜日って魚を食べる日みたいだ^^?
フランクフルト近郊滞在の間、我々は家族4人で南フランス旅行をしたり、妻と冬の「カミーノ」(スペインの巡礼路)を歩いたり、 下の娘と三人でアメリカ7週間の旅をしたり、トルコで休暇を過ごしたりと、仕事以外でもいろいろと旅をした時期でもあった。
また、半分仕事で半分プライベートという旅もある。それを入れるとベネルクス三国やバルト三国、イタリアや南仏、クロアチアや アイルランド旅行などがある。私自身はそれほど旅行が好きという実感はないが、どうも嫌いではないみたいだ。 まあ、みんなでワイワイ旅をするのが好きなのであって、一人旅はほとんどしたことがない。
ああ、この時期に2006年サッカーワールドカップがドイツで開催されたなぁ。日本チームは予選リーグで終わったけれど、 サッカーの国らしく盛り上がった暑い夏であった。
ところで、ドイツ人はそんなに背広とネクタイにこだわらない。しかし、このフランクフルト金融街はさすがに銀行の高層ビルが立ち並ぶだけあって、 スーツ姿も目に付く。東京やアメリカの都市のように高層ビルが立ち並ぶ都市は、ドイツではフランクフルトだけだ。
そして、私はここで帰国を決心することになる。
全然そんな気持ちの準備もなかった。ずっと死ぬまでドイツ語圏に住む決心があった。けれど帰国した。時が満ちたとしか言いようがないな(^王^)♪
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 関西暮らしも気に入った♪



帰国するなら東京だな。それも占い師以外にドイツ語関係の仕事も続けるつもりならやっぱり東京だろ。そう思っていた。 ところが、「神戸はどう?」という妻の提案に「ん?大阪は嫌だけど、神戸ならいいかも^^」と応えた。 で結局、マンスリーマンションを阪急神戸本線の塚口で借りて、マンションもその近くに決めた。 尼崎だから兵庫県ではあるが、電車で神戸までは30分。梅田までは10分。電話番号の市外局番も06。 そして、占い館は大阪。私は大阪に帰国したのだった!
結局、ここでよかったんだと思っている。というか、頭では東京だとか神戸だとか思っていたけれど、 大阪に帰国すると決っていたのではないかと思う。それくらい自然でスムーズに溶け込んでいる。 人々が親切で暮らしやすい。気にいらなかった関西弁のアクセントも、不思議なほど気にならない。 むしろいい響きだと思える。というわけで当分どこか他の地に移り住む気はない。
とはいえ、日本家屋の冬の寒さには閉口した。21年ぶりの日本の夏の猛暑にも参っている。 セミも鳴き止み熱中症患者が多発する酷暑とスコールのような雨にボーゼンとして「ここは熱帯か!」とたびたび思う。 100円ショップやコンビが便利なこと。チーズやバターなど乳製品が高いこと。すれ違う人の視線を避けること(それが礼儀なのかぁ〜?)。 日本語で話すと隣の人にも理解されてしまうことなど。浦島タロウになった気分である。
羅王の占いに来られる方には、ぜひ、羅王は日本人だが、思考回路は外国人だと思った方がいい。
冬はともかく、夏の数ヶ月はドイツかスイスに住むかなぁ〜と考え始めている。
(^王^)♪
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 新大阪に事務所Officeらおう♪


2011年の秋、帰国して丁度2年目頃、新大阪に占いの事務所「Officeらおう」を持つこととなった! 自分の事務所なので3畳一間の手狭な空間とはいえ大変喜んでいる♪
今後はここを占いの拠点として、占いやタロット教室を運営してゆくつもりである。もちろん、 大阪市内に数箇所ある占い館への出演や尾道・因島方面への出張は続けてゆくつもりである。
住所は、〒533-0033 大阪市東淀川区東中島1−17−5 Studio新大阪 831号室だ。


その他の旧ページはこちらです。
「ワクワク」
「レムリア」
「プライベート・メッセージ」

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 羅王が仕事で巡った観光地・観光ルート


 古城街道とロマンティック街道 



 メルヘン街道とエリカ街道 




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 ゲーテ街道と旧東ドイツ圏 



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 ヘッセ街道と花の島マイナウ



 オーストリア・チロルとザルツブルク 




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 スイスのベルナーオーバーラント 



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 スイスのマッターホルン



 スイスのベルン、ルツェルン、ジュネーヴ 




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 イタリアのベニス、ミラノ 



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 チェコのプラハ、チェスキー・クルムロフ


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 オランダのアムステルダム、アントワープ 



 ベルギーのゲント、ブルージ





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金貨の10

金貨の10 このカードを私は「親子3代に亘る富を蓄え始める時」「ワイフワークに取り掛かるとき」と読んだりします。なんにしてもとても豊かで幸せそうなカードですね。
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羅王の予定

羅王が現在エントリーしている占い館の予定は、トップページの「羅王は今」をご覧ください。
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ボストーク号

 ボストーク号

羅王は最初の渡欧の際シベリア鉄道を利用した。列車はボストーク号といった。当時列車の食事が貧しく不味かったのでベルリンに到着したときは数キロもやせていた。これはまだソビエト連邦だったころの途中駅での写真だ。うん、なるほど古い。確かイルクーツクで列車が8時間遅れでグッタリしていたところ、同乗の日本人が「じゃあ、素晴らしい列車旅行だ、という顔して!」と写してくれた一枚だ。若き日の羅王とその妻であった。
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ベルリンの壁

 ベルリンの壁 シベリア鉄道で到着した当時、ベルリンはまだ東西が分かれていた。そして壁は2年後に取り去られた。わずかに残された部分はドイツ東西分断の記念碑になった。これがそうだ。
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スイス三名峰

 スイス三名峰 前景の黒っぽい山はさておき、その奥にある巨大で白い山たちがベルナー・オーバーラントの3名峰だ。左からアイガー、メンヒ、そして右奥がユングフラウだ。
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ピンクのユングフラウ

 ピンクのユングフラウ ユングフラウ(若き乙女)はよく夕焼けにピンクに染まる。なかなかいい眺めだ(^王^)
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グランド・ジョラス

 グランド・ジョラス 登山・観光用のケーブルカーでエギュー・ド・ミディ展望台3842mに昇るとモンブランが間近に見える。その反対側を眺めるとグランド・ジョラス4208mがそびえている。登山も羅王の趣味ではあるが、こんなに大変な山には挑戦できない。ま、絵に描くくらいだな(^王^;)羅王画
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